湘南サッカー部前部長・監督

宮 原 孝 雄

 私が湘南の教師になり、同時にサッカー部の顧問に就任したのは、昭和30年の春であった。その頃は、どうしたわけか半世紀を過ぎた湘南サッカーの歴史の中で、もっとも低迷していた時代と思われる。戦前、戦後の名選手輩出の時と比べ、数10名を越える部員を擁する現在をみ、気息えんえんだったなあと今さらながら思う。特に32年・33年頃は、チームを編成するのがやっとというほどだった。
 しかし、誇りと伝統はありがたいもの、そんなときであっても、いつかはなんとかする。今は雌伏の時代と指導者も部員も暗黙のうちに心ではそう思っていた。それは亡き岩渕先生の「湘南は切れても錦だ、どんなときでも全国第1等のチームになることを目標にして努力するんだ」の口ぐせが全員の身についていたからかもしれない。だから、その頃の部員とグラウンドで会っても、皆、晴れがましく、堂々としている。やはり脈々と続く湘南サッカーの一時期、一時代を全力を尽してやり遂げた、そして責任を果たしたという自負が、そうさせていたのかなど、私は思ってみたりする。
 次に、私がなんとか責任を果たしたと、ひそかに思っていることは、6年間の在職中の最後の年に3年計画で強化したチームが花を咲かせたことである。このチームは水戸で開催された関東大会に出場し、4チーム出場してきた埼玉勢とすべて対戦し、浦和(二回戦)秩父(準々決勝)、川口(準決勝)の3チームを連破し、決勝で市浦和に惜敗することになるが歴史に残る好チームだと思っている。このことは学校でも評価され、その時の3年生は赤木賞を受賞している。
 特に2回戦で、前年度の優勝校で、定期戦3連敗の浦和高を敗った時の感激は、2−0とリードした後、“落ちつけ、落ちつけ”と言いながら、マッチをくわえ、タバコで火をつけようとした岩渕先生の姿とともに、20年経った今でも脳裏にはっきりやきついている。
 その頃、発刊された「湘南スポーツ」に寄稿した大会の反省文から、対浦和戦の部分だけを抜すいして次に記し、歴史の一端に責任をもった者の思い出としたい。
 《 総合力のあらん限りをもって力いっぱい戦うことが試合にのぞむ我々の心境であった、そして5−1の大差をもって完膚なきまでに、これをやっつけた時の感激は、我々の終生忘れることの出来ないものである。60分のゲームが終って、タイムアップを告げるホイッスルの音、どっとベンチから起る喜びのどよめき、肩をたたきあって健斗を称え喜び合った11人のプレイヤー達みんなまざまざと思い浮べることができる、それから応援団の持つ校旗、団旗を囲んで、炎天の水戸の空高く凱歌をあげて勇躍宿舎に引きあげたのだった。しかし、我々は、これで事足れりとせず、決して有頂天にならず、明日からの事のみを考え、何事もなかったようにその夜は静かに休んだ。 》
 水戸で過した一週間が、湘南サッカーの歴史の一端に責任を持った者の思い出としては最も凝縮されたものになっている。