私のサッカー人生

43回生  加納 正道

 私も既に31才。サッカーを始めて18年になります。松波中学入学と同時に出来たばかりのサッカー部に入り、自分達で丸太と竹竿を使ってゴールポストを作り私のサッカー人生は始まりました。亡くなられた岩渕先生とは近所でしたので、この頃より先生の指導を受け、中学3年の時には県大会で優勝しました。
 昭和40年湘南に入学しましたが、当時の湘南は強くその年の関東大会に優勝しました。そして3年生の引退した後、私はレギュラーになれました。その年の高校選手権の県予選で2回戦は小田原高校と対戦し3対2で最後の10分間で逆転勝ち。決勝点は宮坂さんのへディソグシュートだったと思います。3回戦の相模工大付戦は延長で2対1、辛うじて逃げ切りましたが最後ゴール前でくぎ付けにされ、おろおろしました。4回戦は武相に3対0で楽勝。準決勝は慶応高で2対1。このうち1点はPKで相手バックがハンドの判定を不服として試合後泣きながら審判に抗議したような記憶があります。決勝は茅高と対戦し、関口さんのへディングシュートで先制したもののPKを和田さんが失敗、逆に茅高のPKで1点返されて同点とされました。最後に私がバックパスをカットして決勝点を挙げようやく全国大会のキップを手に入れました。
 当時高校選手権は関西で開催され、湘南は1回戦のグラウンドが西京極陸上競技場だった為、正月2日京都へ出発しました。その時初めて新幹線に乗ったのですが、楽しみにしていた車中は、鈴木先生と向い合わせに座り、ずっと試合に関しての注意などを聞かされたので、勉強にはなりましたが、とても肩苦しかった思い出もあります。
 高校選手権1回戦の相手は甲賀高校で、押され気味ではあったものの決定的なチャンスは湘南に多く、特に和田さんのフリーキックを私がへディングしそこなったのも惜しいチャンスでした。しかし当時の私は未熟そのもので、当の本人はボールが頭のどの辺を通っていたのかすらわからなかった程で、翌日の神奈川新聞に「加納へディングシュート試みるも惜しくもはずれる」と載っている写真を見て、ボールが頭の後を通っているのが分かり、非常にはずかしい思いをしました。結局0対0で抽選負けをしましたが、私はまた来年そしてその翌年もまた来られると思っていたので、別に悔しいという気持はなく、ただもっと長く京都に居たかったのに・・・と残念に思うだけでした。しかしその後再び全国大会に出場する事は出来ず、2年3年の時は関東大会止りでした。
 東北大学に入ってからは、3年の秋キャプテンとして東北地区で優勝し大学選手権に出場しました。1回戦三ッ沢サッカー場で法大と対戦しましたが、私はCFでマークされた法大のストッパーは、後の全日本代表の清雲でした。5点取られたものの、私が1点取った時など、東北イレブン、ベンチはまるで勝ったかのような喜び様でした。
 大学を卒業してからは、公立気仙沼総合病院に勤務した3年間は気仙沼クラブ、仙台の大学病院に戻ってきてからは東北大OBクラブで細々とプレーを続けています。そして毎年盛大になった高校選手権をテレビで見る毎に「世が世ならオレもテレビに写ったんだなあ−」と昔を懐かしく思います。