関  東  制  覇

41回生  植松 二郎

 入学当時は約40人、最終的に14人の部員として卒業。この数は、私たちの前後4・5年の中では頭抜けたものだった。鈴木中先生はバリバリの現投、故岩渕先生もまだ週に2度はグラウンドに出ておられた。そんな環境のもとで、3年生の夏、私たちは第8回関東高校サッカー選手権大会で優勝。歴史に残る快挙とまではいえないが、少なくとも私たちにとって一生のうち、そういくつもない晴れやかなイベントだった。
 開催地は水戸。7月中句で、すでに梅雨はあけたはずなのに、雨の多い大会となる。第1回戦は東京大泉学園高。前夜からの激しい雨で、グランドはぬかるみを通りこし、水溜り。ボールを蹴っているというより田植えをしているような1時間余。1対1のまま最延長を過ぎても決着をみず、抽選(当時はPK合戦がなかった)。待つこと数分、キャプテン井手(現二木)の引いたくじは「2回戦進出」。幾人かの選手が、わっと故岩渕先生に駆け寄り、おい、よせ、くるな、と拒まれる。全員、眼だけ開いた、ずぶずぶの泥まみれだった。ツキも実力のうち、と夜のミーティングで鈴木中先生に鼓舞され、その勢いで2回戦千葉高に圧勝。準決勝宇都宮学園高も延長戦のすえ破り、あれよあれよという間に気づいたら決勝戦に進んでいた。決勝戦は、東京の帝京高。CFに身長190cmという、バカでかい選手がいた。当然ながら彼が空中戦にめっぽう強く、攻撃のポイントをつくり、それまでの試合を勝ち抜いてきた。前夜のミーティングで、彼対策の変則ホーメーショソが練られる。鈴木中先生が将棋盤上に駒を並べて指示された。当日は久し振りの快晴。真夏日である。グラウンドもベストコンディション。立ち上がり早々、FKから1点先取。私たちは鈴木中先生の指示を忠実に守り、それは見事適中した。結局その1点が決勝点となり、タイムアップ。優勝、湘南高校となった。
 約一週間の大会だったが、ゲームの外に数々の思い出がある。「故岩渕先生のパチンコ」は、その大きなもののひとつだ。ご承知のとおり、先生のパチンコの腕は、プロ顔負けといって過言でないものだった。大会中の日課として、試合が終わると夕食までの間、宿の近所で軽く打ってこられる。抽選勝ちした第1回戦の夜、「おい、やっぱりツイているらしいぞ、見ろこれ」と、ドサッと景品のチョコレートを土産に持って帰られた。疲れているから甘いものはうれしい。ほんとにツイているらしいという気にもなった。第2回戦、第3回戦も同じようにして大量のチョコレートである。まさにプロだ、藤沢に帰ったら早速パチンコの技術をご指導願おうと私たちは感激した。準決戦の前夜は、チョコレートにせんべいが加わった。決勝前夜は、見ろ、打ち止め3台だとチョコレートの山だった。明日もツイてる。いける。私たちはその山を眺めて、気分が高まった。とても食べきれる量ではなかった。大会から帰って、いろいろなシーンを皆で話しているうちに、待てよ、あのチョレートおかしいなということに気づき始めた。準決勝前夜あたりから紙袋が変だった。○○菓子店というような字が見えやしなかったか・・・・。
 故岩渕先生にこの真相を聞く機会をついにもてなかった。細かい心くばりだったのか、真実よく出た台だったのか。だが、そんなこともうどうでもいい。岩渕先生あのときのあのチョレート本当にありがとうございました。

 鈴木中先生、故岩渕先生という2人の偉大な指導者に、私たちは身体でモノを教えていただいた。16才〜18才という微妙な時期をそうして過ごせたことを心から幸運に感じている。結婚式の披露宴で、鈴木中先生の美声「漢の高租も秀吉も天下取らなきゃ唯の人、まして凡夫の俺じゃものボール蹴らなきゃ唯の人……」あの唄で祝福の辞をいただいた者も多い。ボール蹴らなきゃ、というところがいろいろ変わったとしても、うちこむ、道をきわめる、対象と真剣に立ち向かう、ということの美学を教わったと思っている。