低 迷 期

                        34回生  番場 定孝

 丸屋充(現在カネボウ勤務)、早野勝徳(小松製作所)、畠山昭彦(第一生命)、番場定孝(神奈川県議)、牧村優(帝人)、そして三戸部千早、山口らが34回生である。選手層も薄く、いわゆる名手はなく小さなチームであったが丸屋主将を囲んで、皆気持のよい和気あいあいのチームであった。戦績も私達1年時、国体の県予選で準優勝した以外、何ら目ざましい戦果はなく、昭和20年代のあの輝かしい時代をすぎて、湘南サッカーの最も低迷していた時代の3〜4年でその中間に、私達34回生が位置していたと思われる。
 岩渕先生には長い冬の時代であったが、先生には身も心も一番頑強な時であられ、サッカーへの意欲、なかんずく全国制覇への期待はすさまじく、これを実現するの確信に満ちていたと記憶している。岩渕先生のこうした姿勢は、現役、先輩はもちろん、学校当局にもひしひしと伝わり、宮原先生も若く、若手先輩の柳川さんも特にはりきっておられ、グラウンドには常に気魄があった。この頃は現投の指導に訪ねる先輩も多く湘南サッカーのよき伝統をそのまま、後輩に伝えて行った。岩渕先生も実地によく指導され、あの巨体がグラウンドを縦横に走り下声を飛ばたものだ。柳川先輩らの「しごき」も猛烈であった。今はないと思うがその一つに「地獄」というのがあった。センターライン手前に一人立され、ゴールから何人もの先輩が矢継ぎ早にボールを送って来る。これを即、蹴り返すのだが、「ダッシュ!!、ダッシュ!!」と罵倒される。そのうちマラソンになり、最後は、地面に這いつくばるのがほとんどであった。
 この頃は技術面もさることながら、まずは根性、まずは体力というのがサッカーの基本と、とらえられていた。練習は毎日放課後、行なわれ夕闇まで続く。土曜は午後いっぱい、日曜は試合が多かった。春には教育大附属高較と定期戦、夏休み前半が合宿と国体予選、秋は32年から浦和高校と定期戦、12月に全国大会予選、2月より新人戦とおおかたの年間スケジュールはそのようなものであった。そしてそれぞれの大会の決勝戦は湘南のグラウンドか県立体育センターのグラウンドで行なわれていた。体育センターのグラウンドは現在のグラウンドでなく丁度今のセンターと体育館が建っている所が公認サッカー場であり当時小田急善行駅はなく、八洲台の長い坂を皆歩いて通っていた。夏休み合宿の時に、体育センターで合宿しているチームとよく練習試合があった。その時は湘南から隊列を組んで、マラソンで八洲台の坂を登っていたのを記憶している。そういう時でも柳川先輩は一緒に走っていた。こうした先輩による根性とカのサッカー、宮原先生の速さとダイナミックな技のサッカー、そしてパスと変幻自在な変則ホーメーションを得意とする岩渕理論(いまでこそめずらしくないが、当時は非常にユニークであった。)がこの頃の湘南サッカーのスタイルであった。
 昭和33年2月28日未明、湘南は本館が全焼するという不審火にみまわれた。サッカー部々室も丸焼けになり、朝方かけつけたメンバーは何一つ残っていないその光景に呆然とした。土台のあたりに黒こげになった、スパイクがころがっており、それも子供の靴と間違う程に縮まって、そっくり返り、これが、自分のものかと、目を疑った。この時はボールはもとより、練習着、ユニホーム、ネットなど、サッカー部のすべてを失ってしまった。たしか翌日と思うが、鎌倉学園サッカー部から数個のボールが見舞として届けられた。その日からまた消火の水たまりがまだ残る校庭で練習が始まった。こげ臭さがグラウンド一面漂っていたのをわすれない。部屋を失った我々は、現在の西側の石段の下(今の部室の一番石段の近く)に戸板やトタンを集めて掘立て小屋を作りかなりの間これを部室としていた。これも岩渕先生の発案だった。火災を機会に、古い湘南の校舎もほとんど改築されてしまった。往時の校舎、部屋、合宿所、そして掘立て小屋と、なつかしい限りだ。
 34回生は岩渕先生にグラウンド以外でも大変お世話になった。当時先生は英語の先生をしており、我々の成績を心配してか練習が終ると、合宿所の下の部屋に集められた。そこで、今度は英語の特訓を受けたのである。グラウンドでは「鬼の岩さん」と呼ばれ、メンバーの一挙一動に雷鳴をとどろかせた岩さん。練習に疲れてコックリも出るその特訓は注意の一つもせずおだやかな授業を続けられるのであった。湘南サッカーと青年のよき日を思うにつけ岩さんは必ず現われて来る。
心からご冥福を祈りたい。         34回生一同