昭和32年の活動

                    32回生 篠田 亮

 33回生の私達が3年生としてプレーした昭和32年度は、湘南サッカーの長い歴史でも稀に見る低調な時期であったと思います。1年上級のチームは3年生9〜10人を占め、中学での経験者も多い強力メンバーでありました。県大会はもとより、関東大会でもなかなかの成績をあげておりました。
 これにひきかえ、私達のチームは、3年生までの途中で部を離れるものが多く、4月時点での3年生部員は5人(大滝基起、小圷泰正、後藤強、篠田亮、竹内洋)を数えるものの内2人は前年の12月以降に入部した者であり、中学での経験者は皆無という弱体でありました。
 4月に行われた教育大附属高との定期戦には、新2年生を加えてもメンバーが不足し部員でない者を加えやっとという態体落で完敗してしまいました。その後、国体予選、浦和高定期戦(第1回)、西宮大会予選といずれも敗戦におわりました。なかでも、県立川崎高に敗れたときなどは、岩渕先生から「湘南の歴史始まって以来だな」 などと毒舌を浴び、情ない思いをしたことを憶えております。
 僅かに慰めとなるのは、当時県下最強であった鎌倉学園とは不思議に相性がよく、練習試合を含めれば4度程対戦し、1勝1負2分ぐらいであったことであります。敗戦も1点の最小差であったと思います。当時の鎌学は、片伯部選手(延岡工のち中大・日立)と共に第1回ユース代表のGKとなった松岡某君、のちに法政大のHBを務めた伊藤某君などを中心として比較的よくまとまったチームであったことを附け加えて、私達の間接的な言訳にさせて頂きたいと思います。
 それはさておき、このようなパッとしない成績におわった私達のサッカーでしたが、宮原先生の指導よろしきを得て、明朗な大滝主将を中心に、またガンブチさんが「30年に1人」と評したとの噂もある逸材小杯の馬力に圧倒されながら、気の好い後輩ともども青春のよい思い出となる日々をおくったことはたしかです。
 ただ全く悔いがないわけではなく、後年の反省として感じていることを、低迷期にあるときの後輩の参考になればよかれと思い附記しておきます。
 それは、私達がやっていた練習についてであります。あの頃、私達は毎日(月〜土、原則として休みなし)暗くなる迄練習を行っていたわけで、今の湘南では考えられないような練習量でありました。しかし成果があがらなかったのは実績の示すとおりです。思い起せば誠に芸のないワンパターンの練習を繰り返しておったのです。ボールコントロールの基礎技術、体力錬成、ゲーム感覚など一応なりとも体系化してスケジュールをつくるとか、特定の技能に合わせた種目を考えるとか、戦術について討議したりものの本にあたるとか、総じてThinking Soccerをやっていなかったことが悔まれてなりません。
 高校スポーツは、一面青春の情熱の昇華でありますからある程度の成果が必須でないにしても望ましいことに間違いありません。ただ将来非常に高い水準に達するプレーヤーを育てるのであれば、短期的な成果は度外視するでしょう。水準の高い最近の情勢では、中学以前の経験のないものがその高みに達することはまず考えられませんし、失礼ながら、湘南高の場合は、そういうことは稀と言っても過言ではないでしょう。そうとすれば、湘南高の場合、考えるサッカーを地道に積み上げ、或る程度納得できる成果をあげて青春の充実感を持つようにすることが大事であり可能なことだと思います。もちろん、最小限という意味ですが‥‥。
 低迷期にある時の後輩諸君、私達の苦い反省をよすがとして、是非考えるサッカーに青春の情熱をぶつけて下さい。年を経てから思い起すとき、他にないほど豊かで清々しい思い出を持ったことに気がつくでしょう。
 最後に、1年下の畠山、早野、番場、丸屋、三戸部の諸氏に昔の御協力に対して感謝すると共に、いつか又、一緒にボールを蹴ることを申し入れて駄文をおわります。