湘南蹴球部の初期

2回生  石田 貞一

 私は湘南の2回生です。2回生で蹴球に関係深くボールに親しんだ人は、岩渕君を始め、伊藤、志賀、天野(健二)、木本、志摩、石川、柏原、越地君などが今記憶に残る。
1回生では天野さん(長兄)、中山さん位が想い出される。そして、3回生、4回生が数多く出てくるのだが、小川、真田、中村、中村(正)、楠本、高梨、阿部川、新田、天野(豊)、駒崎、笠原、小熊、藤田・・・・・‥・‥・・何回生か知らないが印象に残るプレーヤーである。
 蹴球は初代赤木校長が、校技として奨励され指導者に後藤先生を迎えられた。後藤先生は、極東オリンピックの選手として、高師在学中から活躍された方で、“ポケさん”の愛称は懐しい。本職の数学指導もさることながら、ボール扱いの妙技は、しばしば教室の生徒の眼を奪ったものであった。後藤先生が見えて、急速に練習もサッカーらしくなり、他校相手に練習試合なども行われるようになった。特に仲よく胸を貸してくれたのは鎌倉師範であった。これは鎌師の高橋先生(パッサン)と後藤先生の親交のあった故だろう。その他相手校としては、関東学院中、横浜三中、県立二中などで、勝ったり、負けたりだった。なお、県大会、関東大会、全国大会いろいろあったが、忘れられないのは胸を借りた鎌師に、はじめて勝ったときだろう。県立二中は横浜の北部丘の上にあり、赤土のグラウンドさま雨で泥の海だった。その中で、シュートパスの得意な湘南には有利だった。2:1・・・・・・・。以降鎌師恐るるに足らずと自信を持つようになった。雨は湘南に幸ということになったが、今日はどうだろうか。
全国大会が高師の運動場で催され、附属中に、2点先取され、タイムアップ間際に敵の蹴り返したボールが、岩渕氏の胸か腹に当ってゴールイン貴重な1点を得た。
 さて、想い出は尽きないか、湘南の小高い丘から、南運動場を隔て、麦畑が広がり、遠く東海道線から更に、江の島までも一望できた。西に眼をうつせば、鳥森、箱根連山、富士、そして北に大山、丹沢‥‥‥四季の移り変わりにつれて風情は尽きない。ひばりの啼く麦畑に囲まれ、練習に心地よく疲れた身体を草いきれの大地に横たえ、茜さす夕陽に映えた烏森を眺め、青春を語ったものだ。
 5時の下りSLが力強く煙を吐いて遙か麦畑の向を通ると、5時20分の上りに間に合うようにカバンを抱えて学校から駅まで駆けあし、汽車通学の部員の常だった。時には、六木松の所に新設されたパン屋で、10銭で2個のクリームパンで帰宅までのつなぎに、時々は学校近くの引地で大福のあみだと・‥‥・懐しい。
 大正の末期は浪漫に満ちたよき時代だった。