ア 式 蹴 球 時 代

1回生  天野 武一

 私どもが、大正の末期に旧制湘南中学で球を蹴りはじめた頃、いまのサッカーのことをア式蹴球と呼んでいた。それは、アソシェーション・フットボールの略称で、これに対するものは、ラ式蹴球つまりラグビー・フットボールというわけである。ところで、異国の学生の間でラグビーのことをラガーと呼ぶようになるに伴ないア式蹴球の方もサッカーというようになったのだという。日本蹴球協会創立満50年記念出版の「日本サッカーのあゆみ」によると、「外国人には、サッカーでは通ぜず、ソッカーであるが、それはさておき、サッカーでないと通用しない国は、オーストラリア、カナダ、USAの3ケ国だけで、全世界的にみると、他の国々はみな単にフットボールという」とある。なるほど、私がひそかな趣味とする世界各国のサッカー切手のコレクションをみると、それぞれの国の言葉でフットボールという意味が印刷されているのが多い。
 思えば、ア式蹴球と称して通用していた時代に、わが母校湘南中学ではじめてフットボールらしい技術を示して下さったのは、数学の後藤基胤先生であった。先生は、別の名をポケット猿、略してポケさんといわれたくらいに小柄のきびきびしたスポーツマンで、東京高等師範(筑波大学の前身)在学中に極東オリンピックのア式蹴珠日本代表選手団の一員であられたと承ったが、それほど本格的なプレーを身につけておられた。岩渕二郎君たちは、教室でも運動場でもこの先生から教えをうけた最初の生徒であったはずである。そして、この後藤先生は、しばらくして学習院の教官にご転任になってしまい、短い間のご縁ではあったが、先生の蒔かれた種の大きな一粒が岩渕二郎君に結実したことは疑いをいれない。
 私は岩渕君より一年上級であったためか、後藤先生の授業をうける機会をもたなかったけれども、グラウンドでの印象は今も眼底にのこるほど新鮮であった。ところで、今より10数年以前のある晴れた日の午后、偶然にも学習院初等科の校舎の門の前を通りすぎようとした私は、「故後藤基胤先生告別式式場」と墨書された立看板をみておどろき、失礼をもかえりみず、校内に入ってなつかしい先生の遺影に拝礼させていただいたことがある。先生は、初等科の校長先生に相当する現職のまま他界されたもののようで、傍らに掲げられたご略歴を示す文章には、わが湘南中学の先生であられたことも明記してあり、私は、その日、その時刻に、そこを通ろうとした奇縁に惹かれる感慨で胸いっぱいになり、往年の若々しいポケさんのユニフォーム姿をあらためて偲んだことであった。
 すでに岩渕君もこの世を去り、ア式蹴球時代のあけぼのに直結した湘南サッカー半世紀にわたるひとつの時期は、ついに終った。いま1981年の年頭にあたり、鋭気あふれる新生湘南サッカーの健闘に期待して、新らしい時代の自覚と向上発展を希求してやまないしだいである。